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続・海を守る森

2007年08月28日
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『真鶴の 林しづかに 海の色の さやけき見つつ わが心清し』
 これは大正から昭和初期の歌人である佐佐木信綱先生が詠んだ短歌で、この真鶴の海と森を詠んだ歌を刻んだ歌碑が真鶴岬の突端、魚つき林の入り口近くにあります。私は真鶴の海と森を詠んだこの歌が好きで、この歌碑の前まで来るとつい足をとめてしまいます。佐佐木信綱先生は調和のとれたこの真鶴の自然に感銘をうけて、そのいとおしさ、かけがえのなさをこの歌に託したのではないでしょうか。私が生まれる以前にこの真鶴の海、そして森を眺めながら想いをはせていた先人の姿を想像するだけで、うれしくて胸がいっぱいになります。
 佐佐木信綱先生は伊豆・箱根の自然にいたく感銘をうけたようで、その晩年、真鶴を訪れた旅すがらにこの歌を詠んでいます。この歌を初めて目にしたときに私は、真鶴の自然に対する私の心象とでもいいますか、胸のうちの漠然とした想いをずばり表現されたような気持ちになりました。佐佐木信綱先生がこの歌を詠んでから100年足らずです。一方で真鶴の森の主役たるクスノキやスダジイ、タブノキ、そしてクロマツの巨木は樹齢300年ともいわれますから、木々の一生からするとこの歌の歴史は微々たるものかも知れません。しかし、短くも美しいこの一編の歌のなかに、なにか悠久の時の流れのようなものを感じるのは私だけでしょうか。

 真鶴の森はその植生のほとんどをタブノキに代表される陰樹が占める、いわゆる極相の森です。植物遷移でいうところの極相とは複雑な遷移過程の極まった状態であり、いったん極相にいたった森はその植生をほとんど代えることなく、安定した恒常的な森になります。真鶴岬は箱根の山々の火山活動が活発だった時代、およそ16~17万年前に形作られたといわれています。そうなのです、真鶴の森は気の遠くなるほどの歳月をついやし、自然界のさだめにしたがって淘汰を繰りかえし、たがいに切磋琢磨しながら成長してきた結果、現在の姿にいたっているのです。

 はるか昔に箱根の山々が活火山であったころ、火山から流れ出た大量の溶岩流が相模湾にそそがれて真鶴岬が誕生します。当時は蒸気が噴きあがるだけの、生の感じられない不毛の地なのですが、しばらくすると(といっても10年単位ですが)徐々に地表の温度が下がって植物が現れるようになります。このような不毛の地に最初に現れる植物はコケです。コケは地表の温度をさらに下げ、不毛の地に土壌を生みます。やがて風や鳥によって運ばれた草花の種子が根づいて芽生え、花をつけるようになるでしょう。草花の根は土をやわらかくし、枯れて肥やしとなり、真鶴岬が誕生して100年も経てば樹木を養うことができるほどに土壌は肥沃になっています。樹木で真っ先に現れるのが日光の恵みをうけて育つ木々、いわゆる陽樹です。まずは陽樹の低木が現れて生い茂り、ついで陽樹の高木が低木の恩恵を存分にうけて現れます。陽樹の高木が天空をおおうころには、必然的に森のなかにはじゅうぶんな日差しが届きませんから、しだいに陽樹の低木はおとろえ淘汰されます。このようにして陽樹の森が生まれるのですが、この鬱そうとした森のなかでも生命力を発揮するのが日光を必要としない木々、いわゆる陰樹です。やがて陽樹が老木となり朽ちはてると、森の中にはあらたな陽樹を育むだけ日差しはすでにありませんから、陽樹が淘汰されるのは時間の問題です。

 このようにしてその植生のほとんどを陰樹が占める森が生まれ、植物遷移はついに極相にいたります。いったん極相にいたった陰樹の森のなかで育まれるのはやはり陰樹で、もはやその他の植生が入りこむ余地は少ないというのが一般的です。一方、真鶴の森に目を転じてみると、極相にいたるだけのじゅうぶんな歳月を経ているにもかかわらず、陽樹であるはずのクロマツの巨木がいたるところに存在しています。真鶴の森のなかのこの樹齢300年ともいわれるクロマツの巨木の存在は、まわりを海にかこまれているという真鶴の地域性と、真鶴の調和のとれた自然ゆえの多様性を示しているのでしょう。塩分をふくんだ土壌や海風のいたずらで極相にいたる過程が遅れているとも考えられ、将来的には真鶴の森からクロマツが姿を消す日がくるのかも知れません。

 森の中に足を踏み入れると、聞こえるのは鼻歌のような鳥のさえずり、木々にしみいる虫の鳴き音、そして風にたなびくな枝葉のささやき。森の中にある音はそうじておだやかであって、そこには森の奏でる安定したリズムを感じることもあります。日々の生活にある波長から自然界に流れる波長のなかに身をおくこと、その経験こそが私たちのいう“いやし”なのでしょう。森の奏でるリズムのなかにいると、いつのまにかそのリズムになじんでしまい、私自身までもが森と一体になった気すらしてきます。一見すると真鶴の森は平穏で安定しているので、今でも生と死は延々と続いていること、淘汰は静かに繰り返されていることを忘れてしまいそうです。

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