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海人との再会

2009年08月07日
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 沖縄に住んでいたころの友人が真鶴に遊びに来てくれました。別に沖縄の人間ではないし、漁師というわけでもないけれど、私はその友人を勝手に海人(うみんちゅ)だと思っています。それも抜群の海人。お互い内地(沖縄からみて“本土”の意)に戻ってからも連絡は取り合っていましたが、実際に会うのはかれこれ4年ぶりになるんですね。久々の再会はとても楽しいものとなりました。
 彼とは沖縄に移り住んだ時期が同じということもあって、私が沖縄を思うときにまず頭に浮かぶ友人のひとりです。彼も移り住んだ目的が海ということで、週末の海ではよく遊んだものです。しかし、今思い返してみると、示し合わせて連れ立って海へ行ったことは少なかったように思います。そう、示し合わせないでも、とくに約束しなくても、週末に海へ行きさえすればきっと会える友人のひとりでした。私にはそれでじゅうぶん、その感覚が気に入ってもいました。ひょっとすると、彼も同じ思いだったかも知れません。週末の朝早くに海に出かけては、彼の姿をよく探したものです。

 そんな彼と示し合わせて海へ行くことがあって、その際の目的はただひとつ、魚突きでした。「海中で息を長く止め、素潜りで海深く潜り、大魚をしとめる」というと格好つけ過ぎですが、私たちにすれば海での遊びのひとつでした。銛を自分で作ったり、改良したりと道具を工夫し、海底で息を止めたり、美味しそうな獲物を探したりと素潜りのスキルをみがきます。スポーツととらえればスピア・フィッシングってことになりますが、私たちにはそのゲーム性がたまりませんでした。ちなみに彼は魚突きの達人で、どんな条件の悪い海でも必ず獲物を突いてきたものです。また彼は魚をさばくことがうまく、魚のあつかいでも達人でした。その意味では本物の海人ですね。

 彼と海で遊んでいるときはいつも、私は胸にある思いがありました。その思いは言葉ではうまく言いあらわせない、主観的できわめて感覚的なことです。私は彼と、海への接しかたがどこか似ているなあ、と。好みの海や潜りのスタイルなどはまったく違うのに、海への思いは、それも根っこのほうで重なるところがあるなあ、と。そのような友人と海で遊んでいると安心感がありますね。思わぬところに危険がひそんでいる海にあっても、彼なら絶対に大丈夫、間違いはない、と。

 4年ぶりに会った彼は、うれしいことに、海に対する思いはまったく変わっていませんでした。しかし、沖縄ではやんちゃぶりを存分に発揮していた彼の息子は、しっかりしたお兄さんになっていました。いつも奥さんに抱かれていた彼の娘は、ちょっとおませな女の子に成長していました。もっとも、一番驚いたのは彼の家族がひとり増えていたことですが。沖縄にいた時分の彼からは信じられませんが、本格的に海で素潜りするのは沖縄以来と言ってましたから、なんと4年ぶりなのだそうです。でも、やっぱり海人には海が似合ってましたよ。

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